7世紀後半から8世紀にかけて、中央集権的な国家のしくみである律令制度が整えられていきました。
東北地方にもその支配はおよび、9世紀のはじめには岩手県南部から盛岡周辺にまで達しました。
八戸は、この律令体制に組み込まれることはありませんでした。
律令体制に従わない人々は「エミシ」と呼ばれ、野蛮人とみられました。
しかし、八戸からは律令国家で生産された鉄製の農具や漢字が書いてある土器が発見されており、律令国家との交流を持つ有力者がいたことが分かっています。
これらの有力者(リーダー)は、古墳と呼ばれるお墓に葬られました。
遺体を入れた棺桶を古墳に埋葬するところ。
真ん中に入れて、土を盛り上げて作ります。
古墳の中には、刀・宝石などの宝物を一緒に埋めます。
刀の持つところにつける飾り。
獅子の顔に3つの輪がついています。
銅に金メッキをしたもので、とてもすてきな細工がなされています。
家の中にはカマドがあり、地下に煙突を掘って、外に煙を出す工夫をしていました。