「卯辰飢饉物語」より挿絵(原本の画像データに着色)
(うたてききんものがたり)
八戸の飢饉(けがじ)の様子を記録した江戸時代の書物
八戸では、飢饉のことを「けがじ」といいます。
作物が実らない凶作が起こると、食べ物がなくなり、八戸では何度もケガジが起こりました。
寒い地域である八戸には、米作りに向いていない土地が多くありました。夏に海から吹く冷たくしめった風(やませ)によって、たびたび凶作が起こり、作物が全く実らない大凶作の年には、ケガジでたくさんの人々が亡くなりました。
私たちの先祖の人は、豊年と凶年をくり返しながら、懸命に生き抜いてきました。
新井田にある対泉院(たいせんいん)という寺の入り口にたっている江戸時代の飢饉(けがじ)で死んだ人を供養する塔。裏面に天明の飢饉の様子が刻まれています。
安永七年(1778)の頃から、ここ数年の間耕作はよくなかった。天明三年(1783)の大凶作の様子は、四月十一日の朝に雷が強く鳴り、やませ(冷たい風)が吹き、大雨が降りだした。
それ以来、八月の末まで雨が降り続き、九月一日にようやく晴れた。夏の間ずっと綿入れを重ねて着なければならないほど寒かった。田や畑の作物は実らず、青立ちのままだった。人びとは階上岳へ登りわらびの根を掘り、海草や山草はもちろん、わらも粉にして食べた。そればかりか■■■■■■(※この部分は削りとられています)。
翌年になると、領内すべてで収穫がなくなり、病気が流行し、多くの人が餓死(がし)して、死体が山のようであった。町や村では毎晩のように火事があり、押し込み強盗などが多くなった。しかし、新井田村では出火はなかった。
領内の人口六万五千人あまりのうち、三万人あまりが死んだ。新井田・十日市・田向・塩入・岩淵の人口男女あわせて千四百十八人、そのうち六百九十六人が死んだ。家は二百七十二軒のうち、百三十六軒がつぶれた。これまでにないことである。これからは、米や穀物をたくわえておくべきだ。
八戸の飢饉(けがじ)の様子を記録した江戸時代の書物