寛文4年(1664)盛岡藩主南部重直は、次の藩主となる後継ぎが定まらないまま死去しました。
そのため、同年幕府はもとの藩領10万石を分割し、あらためて8万石を重直の弟重信に与えて盛岡藩とし、2万石をその下の弟直房に与えて八戸藩とする裁定を下しました。
こうして八戸藩が誕生し、明治4年(1871)の廃藩置県まで続きました。
北は市内の市川(三菱製紙付近)、南は岩手県久慈市・葛巻町、西は名川町などでした。また、志和4ヶ村(花巻市紫波の一部)も含まれていました。
領内の人口は、全体で約6万人でした。