源頼朝が鎌倉幕府を開いてからは、武士が世の中を支配するようになりました。
甲斐国(現・山梨県等)の武将・南部光行(なんぶみつゆき)は、奥州平泉の藤原氏を破った手柄により、頼朝から北東北一帯を賜ったと南部家には伝えられています(実際には領地としていません)。
元弘3年(1333)、北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)より陸奥守に任じられ、義良親王(のりよししんのう、後の後村上天皇)を奉じて陸奥国府に赴任しました。
このとき、光行の子孫・南部師行(なんぶもろゆき)もこれに従い奥州の地へ入りました。
師行は顕家より国司の代官(糠部郡奉行 ぬかのぶぐんぶぎょう)に任じられ、建武元年(1334)、南朝方の拠点の一つとして根城を築いたといわれています。
根城は、南北朝時代から江戸時代初頭までの約300年間、八戸の中心でした。
以来、この根城を本拠とした南部氏の系統は、「根城南部氏」(または八戸氏)と呼ばれるようになりました。
根城は、根城南部氏とともに南北朝の戦乱を耐え抜き、室町、戦国、安土桃山時代と長きに渡り、北奥羽の地に存在し続けました。
天正18年(1590)、三戸南部氏の南部信直(のぶなお)は、天下統一を成した豊臣秀吉から、南部氏領全体の所領安堵の朱印状を得ました。これにより信直は領内全体の支配を認められ、根城南部氏はその配下の立場となりました。
また秀吉は全国の大名に向けて、各領内の諸城を破却する命令を下しました。南部氏はこれに従って、三戸城を除く領内の城の大半を破却し、根城もまた城としての機能を失いました。
江戸時代に入ると、寛永4年(1627)、南部利直(としなお)の命により、根城南部氏は遠野(現・岩手県遠野市)へ領地替えとなり、根城は歴史的役割を終えました。
根城からは、発掘調査によって、よろいや刀などの武器・武具の部品や、陶磁器などの生活用具が発見されています。