八戸城下町は、現在の八戸市中心街にあたります。八戸の街づくりは寛永7年(1630)頃に始まりました。本通りを挟んで西側の三日町から廿三日町には根城から、東側の八日町から廿八日町には新井田から商家を移したとも伝えられ、八戸藩が誕生した寛文4年(1664)には、ほぼ完成していました。
八戸藩誕生以降、約200年余りに渡って城下町の整備は続けられました。近代以降も、城下町当時の交通網や流通網の上に鉄道や主要道路などのインフラが整備され、今日の八戸発展の基礎となりました。
現在の八戸市街地には、当時の建造物はほとんど残っていません。しかし、江戸時代の地図でも迷わないほど町の形や名前は変わらず残されています。
城は、北に面した断崖を背にしています。城から南にむかって上級武士、町家、さらに中下級武士の屋敷地となり、町家の東西には足軽町が配置されています。また城下町の外側は売市・沢里・類家などの堤に囲まれ、城下町南端の長者山にはお寺や神社が集まっています。
八戸の城下町は、本通りを挟んで表通りと裏通りが足すと九になるよう数字で配されています。
城から延びる本通りを挟んで、西側には表通りの三日町の裏に六日町、十三日町の裏には十六日町と並び、東側には表通りの八日町の裏が朔日町、十八日町の裏が十一日町と並びます。
対になった表と裏を足すと東西どちらも、九、二十九、四十九と九が付きます。表通りには御用商人などの大店が並び、裏通りには職人が集められ、職種によって住み分けも計画されました。
この計画は早くに崩れたようですが、大工町や肴町、馬喰町など、地名にその特徴が残りました。
現在の三八城公園(公会堂付近)に建っていた八戸城の復元模型
建坪 約795坪。
明治時代に取り壊されました。
長い海岸線と広大な山間部を持つ領内各地から、九戸など山間部の木材や炭、大豆、大野の鉄山、浜通りの塩、〆粕(しめかす…イワシなどをくだいた肥料)などの産物が城下に集められ、輸出入に賑わう八戸湊から全国に販路を広げ、また城下から領内各地に運ばれていきました。
・米 ・たばこ ・木綿 ・小間物 ・薬 ・瀬戸物 ・紙 ・砂糖 など
・大豆 ・木材 ・〆粕(しめかす) ・干鰯 ・鉄製品 ・魚油 ・馬 など